溶ける寸前の雪だるま/脊髄反射のように書いてるネタ短文っぽい何か

溶けきるまでの日々。ネタのような雑記のような創作のような文章を垂れ流しているブログ。

ただゆらりとのぼっていくいく煙に鮭を見た。

 

もくもくといえば何を想像するだろうか。

 

何かに向かっている様だろうか。

煙が立ち上がる光景だろうか。

樹木のことを思う人だっているかもしれない。

どれを想像してほしいのか、するべきか、というのは前後の文脈や状況が必要だ。

 

その中でも、擬音とは共感が必要だ。

文字であらわすのなら特にそうだ。

共感と必要な知識、経験ががっちしなければ

ちょっと何言ってるのかわかりません。

となることに何の不思議もない。

 

でるんりちょっちゅりん!

 

といったところで何が起きているのかは書いた本人の想像の中にしか再現されないという事だ。挿絵があっても逆に混乱するまであるかもしれない。

音に擬態もできぬ有様。

 

音? それ……音?

 

と疑問を呈するしかできぬ有様。

いっそ

 

鳴き声です。

 

といったほうが納得される有様だろうか。

それはそれでどんな生き物だよこっわ、となるのである。

 

でも分解して

 

でるん

 

っていうと何かが押し出されるか、大きなゼリーか何かがどぅるるん! ってしている感じは伝わるのではないだろうか。

擬音の説明に擬音使う。擬音とは無限の可能性だったか……

 

……

 

で、でる、という響きからでてくる! っというのも発想しやすくあるわけであるからして。

 

 ……

 

 ともかく。

 

擬音も経験に裏付けされなければならないという事だ。慣れも必要だという事だ。

文字は知っていても漫画を知らない人に漫画を見せれば内容どころか読む順序さえ当然わからないように。

 

何が何を現しているのかわからないといったことはままある。

けれど、それは決して悪い事であるわけではないという事だ。

経験すればわかるということでもある。

わからなくてもいいことも含めて。

 

経験してわかるようになってもわかった数だけ迷うことも多くなる。

一長一短さはどこにでも現れるものだと思う。

知らなければいいのだろうか。知っていて迷うほうがいいのだろうか。

知らず選択できない選択をする方が平和に終わるだろうか。知っていて間違った選択をしたほうが恥をかくときもあるだろうか。

 

みんなちがってみんないい。

 

とはよくいったものだ。

逆に、それはとても無関心にも思えるけれど。

 

 

 

何が言いたいかといえば、なんかこういうこといっておくと煙にまけるような場面ってやっぱ多いよね。

 

 

最後ほうとかもう擬音じゃなくていいじゃん。関係ないじゃん。でもいい話風とかなんかちょっと深いこと言ってる風とかにすると割とスルーしてくれることもあるよね。

 

ということで(?)擬音の話に戻って終わろうじゃないか。

今言ったらどうとらえられるのだろうか。

なんかいろいろ言ったようで言ってない感じで、それ単体に繋がるようなことを言っているわけではない状況では。

繋がっていなかろうが、勝手につなげてしまう積み重ね。

 

 

もくもく。

 

 

果たして、最初に書いた己の中でのその意味は。

 

 

昨日は木曜日もく(語尾)!

 

 

擬音である意味とは。