溶ける寸前の雪だるま/脊髄反射のように書いてるネタ短文っぽい何か

溶けきるまでの日々。ネタのような雑記のような創作のような文章を垂れ流しているブログ。

消えない何も、消すだけ誰か

 

存在を抹消する装置ができたとして。

 

成功したら成功したことを自覚できるんだろうか。

 

存在がなかったことになるから消そうとしたこともなかったことになってパラドックスだろうか。

 

元からなかったことになる場合、それは今まであった時間ごと抹消という事でいきなり終末いらっしゃいにならないだろうか。

 

例えばそれを絵にかいていた場合、それはそのものではないわけだが存在は消えるだろうか。

 

その絵が何かの賞を受賞していた場合、なにを賞にしたのか……はあんまり実際問題にならない気はするな。なんか。

白紙の美学

とかで脳内保管されそうな気はする。アートってそういうところあるやん。(暴言)

 

なくしたそれを新たに発見することはできるだろうか。

その場合、なくしたものと同じなのだろうか。

同じの場合か、もしくは同じに至ってしまったら消したという事実とぶつかってそいつも消えてしまったりしないのだろうか。

 

消した事実さえ消してしまうならその装置はそもそも失敗作扱いされないだろうか。

なんだ、実験したけどなにも消えてないじゃんっていうか何か消そうとしたのでは? って発想はできるのだろうかっていう思考事補完されちゃったら終わりよな。

 

存在を元から抹消する装置、

存在事消したと世界中を思いこます装置、

は人間にとってどれほど違いがあるだろうか。

 

捉えられないなら無いのと同じになるだろうか。

 

そう(?)、ネッシーとは。

UMAとは。

 

開発されては失敗作とされて世に出なかった存在認識できなくする装置による産物だったんだよ!!!

 

 

 

 

なんか、めっちゃこじつける陰謀論より酷い過程と結論が誕生してしまったな。

装置で消しておいてくれ。

無理? 無理か。