溶ける寸前の雪だるま/脊髄反射のように書いてるネタ短文っぽい何か

溶けきるまでの日々。ネタのような雑記のような創作のような文章を垂れ流しているブログ。

説明も抜きにナチュラルに人語で通じ合う動物たち

 

昔話とか創作物ではよく動物が人語を介するとか意思疎通ができるとか見るのである。

 

でも動物の言葉がわからない……みたいなことはあっても

 

『ハロー』

 

「ごめん、俺英語はわからないんだ……!」

 

っていう展開はあまりない。

その国にいるからその国の言葉で、ということなのだろうが、連れてこられた動物というパターンもあるではないか。

その場合、言葉はその土地の言葉であることもあると思うのだ。

であるならそういう意味で言葉が通じない状況は十分あり得るのではないだろうか。

 

それともあれか。やはり動物たちの中でバベルの塔は崩壊していない説なのだろうか。

誰に行っても伝わる言語なのだろうか。

むしろそれは人が教わるべきなのではないだろうか。

人である優越感などすて、今一度言葉が1つになるために。

それとも一度ばべられると言葉はばらばらになったまま元に戻ってくれはしないのだろうか。接着剤でつけても元のカップには戻らない的なサムシングなのだろうか。

でも動物の言葉は多くの場合伝わっているではないか。

わかるということは名残があるという事ではなかろうか。

名残があるなら可能性もまたそこに寝転がっているという事ではなかろうか。やる気がないだけで。

 

言葉が通じ合えば全てが解決するわけではないが、それだけ便利なことになるのは確かだ。

バベられたのはやはり致命的だったのだなぁ、などと思いながらそういう動物が話すような話を見るのは見方を間違えているので、同じような、または別の疑問等の発想をした人は是非考えを改めてただ純粋にその物語を楽しんで欲しいともう次第。

思い出そう子供心。

 

いや、子供のころのほうがある意味疑問は疑問として素直に聞いていた気はする