溶ける寸前の雪だるま/脊髄反射のように書いてるネタ短文っぽい何か

溶けきるまでの日々。ネタのような雑記のような創作のような文章を垂れ流しているブログ。

それ自分からいう言葉じゃないよなって台詞は結構いっぱいあるよね

 

あの空のように広い心を持て。

 

みたいなことを言われたことがあるだろうか。

 

そういう時に

 

でも宇宙から見たらゴミカスみたいな広さやで?

 

とかいう反論をするとなおさら怒られてしまうのである。しかし、何故そうも癇に障るのだろうか。

 

お前はうまいこといって諭したつもりかもしれないが、別にそんな事ないんやぞ?

といわれて切れたのだろうか。説教中にキレてはいけない。切れた時点でそれは説教ではなく、ただの感情論の怒りをぶつけているにすぎなくなる。反省することとお前の比喩が下手といって怒るのは別の問題。

 

いや、いわんとすることはわかるのだ。わかっているけど難しいというやつで。説教しようとする場合、少なくともそのしようている側にとって何かをしたやつという訳で、少なからず最初から怒りの種くらいは最低限ある場合が多いのもある。だから

 

そういう事をいってるんじゃあない!

説教中にいらんことをいうからだ!

 

と。せやろ。

 

でも説教中にうんたら~いうんなら、

 

お前もなんかうまいこといった俺カッコイイ的な説教しようとしましたよね?

というか先に広い心持った方がいいのはあなたでは?

 

ってなりますやん。ですやん。

 

というか広い心を持ってほしいなら『広い心を持ってほしい』でいいのだ。

何故、妙なうまくも特にない例えをそこに挟んでしまったのか。

 

わかりやすく、相手に伝わるように、諭し、反省を促し、次からの改善を促すように。

説教である。

 

感情にまかせてまくしたてたり、一方的にこちらの反論をふさぐような行為は説教とは言えないと思うのだ。

 

説教というのは相手に諭す行為であって、間違っても自らが格好がいいと思われたり、見栄を張ったり承認欲求を満たす行為では一人遊びのようなものだ。

それ相手のためを思っていませんよね。なのだ。

 

別に怒りは怒りでいいと思うのだ。小言は小言でいい。

そういうことをしたのなら、それでいいのだ。怒るようなことをされて怒りました。それでいいではないか。なぜそれを説教とよんで、相手のためにとしてしまうのだろう。

何故、自らの行いを高尚な位置に置きたがるのであろうか。自分が気に入らなかった、という理由を言いたくないのはなぜだろう。以外とそれの割合の方が高い場合が多くないですか? どうですか?

 

説教ではないが、それその立場でいう? いっちゃう? それは違うくない?

って発言は割とあるのである。

 

お客様は神様と思って

 

というのは有名だが、

 

自分は客だからカーミーサーマー

 

は違うでしょって話である。

前者は心構え、後者は誇大妄想である。

 

ははー! 神様! 静まり給え! 静まり給え!

 

って実際なんかばっさばっさ儀式やられても困るやん。せやろ。

 

カミサマならなんか土地とか豊かにしたりなんか奇跡起こしたりしろや! できない? 迷惑かけてくるだけ? 祟り神やんけ!!!! 勝手に静まってついでに沈めや!!!!!

 

ってなる可能性もあるやろ。カミサマなら全部敬われるわけでもないし。

 

いや、宗派が違うんで。

 

とか言われたらそも終わりやぞ。

 

うちのスパゲッティ状のモンスターなめとんのか!!!!????

おおん!!!????

やんのか!?

あ!?

やんのか!!??

 

と新たな争いが勃発する可能性を視野に入れているのか。

おいそれとカミサマなどと名乗るのではない。新世界のカミサマとか言ったらだいぶ1話から進むたびに性格歪んでくるでしょ。そういうことだぞ。違うか。

 

ということで(?)

 

発言には色々気を付けるべきであり、言わない方がいいせりふは言うべきではないものがある。当然のことだが、割と気を付けないといってることもありがちなのだ。

明日は我が身という言葉もある。自分だけは例外だとは思わぬようにしたいものである。

イマシメ!