溶ける寸前の雪だるま/脊髄反射のように書いてるネタ短文っぽい何か

溶けきるまでの日々。ネタのような雑記のような創作のような文章を垂れ流しているブログ。

頭の痛い話ですか。痛い話ですね。

 

ハサミがよく切れない。

そんな時ってありますよね。

 

でも挟んでるんですよ。だからハサミという名前に偽りはないわけです。

挟み切ってはいないだけなわけです。

でもだからってハサミキリとは呼ばないわけで、ハサミはハサミなわけなのです。

いいですか。

だから揚げ物が中途半端でも揚っていれば揚げ物だという事なのです。

高温の油に使ったという過程を通過した! よってこの俺様は揚ったということなのだわーははっははー!

という展開もオッケーだということです。

 

さげたらあげものではないみたいなとんちにすらなってませんか? そうですか。

言葉遊びなのか言葉遊ばれなのか、考えたことがありますか? 俺はありません。

 

人がもし会話も文字情報も見た瞬間理解できるタイプのテレパシーで通信するようになってしまった時、言葉遊びはなくなるのでしょうか。

そうは思いません。

 

こいつ、脳内に直接文字を……!

 

みたいにして遊び出すに違いないのです。

テレパシーなのに噛んでる、みたいな独特のシュールさも生まれることでしょう。

つまりばべってもばべられなくともジョークは生まれたのでしょう。

 

そんな壮大な話はしていませんか?

していませんね。

 

しかし思うのです。

生きる、ということはそれだけで壮大なのではないか、と。

 

主語がでかくなりすぎですか。

そうですね。

 

でもいいではないですか。主語を大きくするのはみな好きだと思うのです。

何か独りぼっちでいるような気分から解放されるのか、自然にやってる人を無数にいます。

つまり、自然保護なのです。

 

違うますか。

違いますね。

 

さて、どうすればここから取り返しがつくでしょうか?

無理ですか。

無理ですね。

 

なかったことにするには、これを投稿しなかったことにしなけれなりません。

しかし、ここまで見られる人がいたという事がそれを否定している。

つまり、考えている人と見ている人の思考がすれ違っているわけです。

 

すれ違い通信ですね。

違いますか。

違いますね。

 

もういいですか。

そうですね。

俺もそう考えていたところです。

奇遇ですか。

奇遇ですね。