溶ける寸前の雪だるま/脊髄反射のように書いてるネタ短文っぽい何か

溶けきるまでの日々。ネタのような雑記のような創作のような文章を垂れ流しているブログ。

わかりあうとは妥協を重ねる事に似ている

 

1代目2代目3代目と続いていくのだ。

 

季節はぐるぐると回っているが、同じものだろうか。

 

冷夏とか暖冬とか、変化球が来る当たりそうは思えないのだ。

そこに代変わりしてなれなかったから感を見ることができないだろうか。

次の年からだんだん元通りの夏や冬に戻ったなら更に倍率ドンではないか。

 

代変わりでもなんでもいいからずっとそうなってろよ!!!!

 

と毎度の如く情緒不安定全快で叫びたいところではある。

かといって代替わりしてくれ、なんていうのは所詮1人間の小さな主張に過ぎない。

むしろ、人類の半数がそういったところで季節はそうする必要などない。

 

季節と我々はわかりあうことができるだろうか。

それが妥協を意味するなら今がそうだ。

我々は巨大な存在である季節に従って適応していかなければ生きていけない。

冬にあったかくお願いな!!!! とマッパになることは命を縮めることでしかないのだ。むしろ捕まるから人間同士ですらそれは分かり合えていないことになってしまう。

 

しかし、かといってでは人間が思う通りに季節を合わせられたとしたらそれはそれでわかりあえたといえるだろうか。

 

という人間がでてくることなど目に見えているのだ。

結局わかりあえたにせよそうでないにせよ問題が起こる。

むしろ問題を起こす。

季節と分かり合う前に人間同士で分かり合わないとどうしようもないということだ。

だからいつまでたっても季節とわかりあえないということだ。

残念。