溶ける寸前の雪だるま/脊髄反射のように書いてるネタ短文っぽい何か

溶けきるまでの日々。ネタのような雑記のような創作のような文章を垂れ流しているブログ。

過去という重しが時間の流れに通用するのか

 

未来に生きている、

 

という台詞を聞くときがあるのだ。

 

対極にあるのは過去に縛られている……!

とかになるのだろうか。

人間とはセルフタイムマシーンか何かなのだろうか。

 

未来に、生きている。

つまり未来で生きていることが確定しています?

未来で生きていることが確定している人を現在から未来を覗く形で確信しています?

 

違う? 解釈が違う?

 

あれか。

未来にいるんだ。本当に。

未来はあったんだ!

みたいな感動を伝えられている?

そらそうだよな。未来に生きている! って確信できてるんだもんな。そら興奮もする。(いろいろ間違い)

 

そうか。あれだな?

未来に生きている、といった人は実は同じ団体に所属している……なんか研究員的なサムシングなんだな?

 

人は未来を目指すことはできてもそれを見ることはできないもんな。

生きている、つまり現在進行形である。

自分たちがいる地点より、時空がずれた時間を生きている人間を確認した!

そうでなければ未来に生きているよな、とはいわない!

そうだな!?(違います)

 

 

未来に生きている人ってつまり未来人じゃん。

未来人を見ている人はそれはそれでまた特別な存在じゃないだろうか。

 

と思ってなんか書いてみようとしたら行方不明になった感ある。

なんかちゃんとある程度は書くこと決めないとやっぱダメだな……みたいなこと毎回思ってんな。

俺は未来に生きていないので、失敗することを毎回予測できないのだ……

 

後悔するような過去を持っていると逆に時間の流れがゆっくりになるとかないのだろうか。

だって重いのだ。重しになっている。過去に縛られているというのなら、それは何にとってという話になるのだ。

時間が水の流れのようなら、重くなればそれだけ遅くなるのは道理である!(暴論)

 

じゃあ逆に何の悩みももってないと加速するということになるのでは……?

加速しつづけた人類は到達した未来を貫通するのだ……光が見える……(錯乱)

 

ともかく。

最終的にはプラマイゼロ……そういうことですか?

一人一人という概念ではなく、総合的に人間というもので時間は判定されている。

だから一人一人が軽かろうが重かろうが時間には影響しないのだ!

 

そう未来に生きてるな、とは考えがあれだよという比喩に過ぎなかったのだ……!

 

わざわざ外壁からめちゃくちゃに遠回りにして当たり前のゴールにたどり着く時間の無駄パターン。

にした感じで無理やり終わる感じ。