溶ける寸前の雪だるま/脊髄反射のように書いてるネタ短文っぽい何か

溶けきるまでの日々。ネタのような雑記のような創作のような文章を垂れ流しているブログ。

ちっちゃいころのこびりつくように覚えている記憶から胃液はすごい黄色なのだと割と長く思っていた

 

思いもゲロも吐き出すものだ。

 

言葉もゲロも飲み込むことがあるものだ。

 

そこになんの違いがあるというんだろうか!

 

つまり、ゲロは吐き出してもいいのだ。言葉を飲み込むのに辛い場面もあるように、ゲロを飲み込むのは辛いこともあるのだ。いや、ゲロ飲み込むのはどんな時でも辛いと思うけど、大事なのはそこじゃない。そういうことにしておこう。

 

でも、ゲロも言葉も吐かない方がいいタイミングというものが確かにあって、時と場合という制限はかかってしまうものだ。吐き出してないのにかかるとはこれいかに。

 

しかしもって、例えば便意は我慢できても、ほとばしる思いは我慢できない時がある。

ゲロだってそこは同じなのだ。

同じく喉を通って先にいで、場合によって周りの感情や体調に影響するまで強く揺さぶるという点もよくよく似ているではないか。

 

これはつまり、言葉を吐いていいということはゲロも吐いていいタイミングなのではないか?

 

そう考えるのも無理はない話なのだ。

だが待ってほしい。慌ててはいけない。

確かにゲロは言葉と思いに似ている。熱くほとばしることもある。その後背筋が凍るのも。

 

言葉は一言であっても千差万別。

思いは言葉に乗せることもそうしないこともできる。

 

でも吐しゃ物は吐しゃ物以外になれんのだ……

いや、水鉄砲のように飛ばしたり濁流みたいにしたり分割払いみたいにしてもゲロはゲロなんじゃ……それは変えられん理屈なんじゃよ……

 

だからより時と場合を考えねばならないのだ。

言葉一言が社会的信用をあっさり失ってしまうことがあるように。

 

ゲロはタイミングによってその場で自らをとてもいたたまれない状況に陥れる存在となってしまう。

 

気分が悪いこと自体は何も悪い事ではない。

悪いのに悪くないとはこれいかに。

 

しかし、悪いとわかっているのにそれをおして移動するのがダメなのだ。

まだいける、は、もうやめとけの合図なのだ。特に体調に関しては。

一回の失敗で経験値を貯めることはできるが、ゲロだと割と己の精神的ダメージが場合によってシャレにならなくなるのだ。

 

それは恥ずかしい事ではない。

むしろ、被害を最低限に抑えるための最適な手段であるのだ。

自分にとっても、もし失敗した時にいるかもしれない人たちにとっても。

 

考えてみようではないか。

己がもしげろ吐いた人間に対してどう思うかを。

まず心配はするが、これどうしたらいんだろうという困惑そのほかが湧くことを否定できるだろうか。俺ならおろおろする。オロオロ吐き出しているのはその人だが、俺も最悪一緒におろおろしながらそれに引っ張られてオロオロする。ミイラ取りとろうとしてないのにミイラになるのだ。

 

だから言おう。

ストップ、体調不良ともいえない雰囲気。

いえる環境、イエスだね!

 

 

 

一回吐いたらすっきりするよ!

ってよく聞くけど、ほとんどすっきりしたことないなぁ。

と気持ち悪い中おもいました。

 

と三行でおわるような気持ち悪さとゲロの話を伸ばし伸ばしで書いたものがこちらです。

 

 

おわり