溶ける寸前の雪だるま/脊髄反射のように書いてるネタ短文っぽい何か

溶けきるまでの日々。ネタのような雑記のような創作のような文章を垂れ流しているブログ。

飯を食う事で、自らは空っぽではないのだという自認をすることができるかどうか。

 

人はなぜ飯を食うのであろうか。

 

食べるとは何だろうか。

 

そう考えた時に、悔うという事ではないかということに気付くのだ。(発音が同じだよねっていうただの言葉遊びなのだ)

 

世にいう大罪というのに暴食というものがあるではないか。

 

食いすぎるとだめ。

 

なるほど。つまり

 

悔いすぎるとだめなのだ。

 

後悔していても前に進むことはできはしないのだ、的な前向けよみたいな教えを食事と罪を通して我々に伝えようとしているのではないか。

もっと直接的にわかりやすく頼む。

 

ともあれ。

 

確かに悔いるということ自体は必要なことなのかもしれないが、何事もそうだという話だが極端にやりすぎることは健康にも良くない。

暴飲暴食にて食いすぎ、内臓を痛め。

暴飲暴食を悔いすぎて、ストレスで体を痛めつける。

これでは暴飲暴食が罪であるといわれるわけである。

胃に穴が空けば延々と食べられるということにはならないのだ。

もうすでに穴が開いている=悔い続けられるということにもならないだろう。

 

ものを食べる時は感謝の気持ちを持てとはよくいったものですが。

 

あぁ、申し訳ない。もっとうまく食べればよかったありがとう! とても嬉しいです!!!

 

どっちかにしたほうがいいと思う。

食事さんもこれでは戸惑いを隠せなくなっても無理はなくなるというものだ。

なんでもかんでも悪くないからといってやればいいという話でもないのである。

 

さて、なんの話をしていたか。

 

そう、なぜ飯を食うのかという話でなんでこんなに道をそれていくのか。

あぁ、どうしてももっとうまく言葉遊びで文章をつくれないのだろうか。

もっと練ってはって切ってこねれる頭があればおもしろみもプラスできるだろうに。

 

あぁ悔った悔った。

 

 

いや、そう(それでオチには)はならんやろ。

 

後悔ばかりが人生だ。