溶ける寸前の雪だるま/脊髄反射のように書いてるネタ短文っぽい何か

溶けきるまでの日々。ネタのような雑記のような創作のような文章を垂れ流しているブログ。

負けました、というべきところでは言ったほうが丸くおさまる事は多くある。納得があるか? 収めたいか? は別である。

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〇×ゲームに△を書いたなら、は? といわれるかそのような顔をされるであろう。

 

しかし、おかしいではないか。

世の中〇か×ではおさまらぬことがこれだけ溢れているではないか。

そんな中、ルールだからと△を書いてダメだという。

おかしいではないか。(特におかしくない)

 

とそこまで考えたところで思うたのだ。

 

△がダメなのではない。

いいや、そう書くことがダメではないという意味だ。

ものごと白黒つくものばかりではないのは確かだ。

確かだが、それを〇とか×とか、そういうものにして心のうちに収めていくことが人生は多いではないかという事だ。

 

つまり、〇×クイズで〇と×以外が登場せぬ、その登場を許さぬというのはそういうことなのだ。

 

例え己が△であろうと〇や×に変えてしまえ。

もしくは、納得をしろ。

 

そういう訓練であるのだ。

(対人の区別で白黒きめてるだけだけど)

それがルールだ。法則だ。

中途半端など、力の前では無力なのだ。

もし△を使いたいというのなら、ルールごと捻じ曲げる力を持たねばならんのだ。(〇と×で区別してても三人目がでてくると△使う事は普通にありうるよね)

 

白と黒だけで生きたくなくとも、灰色が許されぬ場合も多い。

この憤りも、怒りとするか許しとするかの二極しか許されぬのだろうか。

心のうちの自由さえ許さぬという。

あぁ、なんという無情なのだろう!

 

ん? 何かね。

……いいからはよ負けを認めろよ?

 

はい。

 

……すみません負けました。

 

(お前ではなくこの世界というルールにな!)

 

え? いや、その、なんでもないでーっす。はーい。