溶ける寸前の雪だるま

溶けきるまでの日々。ネタのような雑記のような創作のような文章を垂れ流しているブログ。

嫌だから見てないのに見せつけてくるやつもいる世の中

 

ある日、虫が苦手な人間が全ての水が虫に見え、感じる世界になってしまったなら、それはどこからが発狂になるのだろうか。

見えるようになった時点だろうか。

それともその世界で過ごすようになってからだろうか。

 

もちろん、そんな世界になったならちょっと得意、割と平気という人間ですらきついだろう。どんなに好きでも限度というものがある。

水道を捻れば無数の虫が流れていく。小さな虫から大き目の虫までがぎちぎちと密集して流れ落ちていく。コップの中は知っているそれから知らないそれまでが集う集合所にすぎない。

一匹の虫が平気でも、トライポフォビア(集合体恐怖症)にとってもそれは地獄である。

極端にそうでなくとも、虫でなくともトライポフォビアの気がある人間は少なくないだろう。

 

よく言う(?)ところの薬物による虫の幻覚は皮膚の下を這いまわるようなものと聞いたことがあるが、視覚的にこういうものがあるのだろうか。よくわからないのだが、そういった時に見た幻覚とは後に脳内でどう処理されているのだろうか? どの時点で幻覚だったとわかるものなんだろう。幻覚とわかれば平気というものなのだろうか……?

 

視覚的にも水滴の1雫が流れるさまが小さな虫の行進に見えてしまうのなら、あらゆる場所で避けることは難しい。

口の中は覗くに及ばず、鏡を見れば目の中には虫がうごめくさまをその眼球と呼べぬそれで見るのだ。

感覚さえ含まれるなら、口の中も目の中も絶えず動きまわる音も感触も生きている限り避けようのないものとなる。

水を飲むことも個体を飲み干すのと同等となり、水分らしい水分はとることが苦痛となるだろう。

 

虫が平気で、愛していて、どんなに大群でも幸せである。

 

そういった存在すら、大量の虫を飲み下すというのは物理的に難しい問題になるだろう。感覚的に見えなくともそう感じるのなら、虫が密集している口内を通り、喉をもがきながら落ち、胃の中で更に蠢くさまを感じ続ける。

水が虫にしか見え無くなれば、人付き合いも難しく、他の動物と触れ合うことも辛くなっていくだろう。

 

それともそんな環境でさえ人は慣れていくのだろうか。

人は慣れる動物らしい。

最初からそうなら「そういうもの」として処理されていくかもしれないが、そうでないものにとって、それはダメになるスピードより速いものなのだろうか。

 

他人を理解しようとすることは良い事かもしれない。

知りすぎた末路として、他人の視界を共有した結果、そういったことが起こらないといえるだろうか。

誰も他人の視界を見ることはできない。

何が不快で何が当たり前かは。

 

 

だから俺が虫嫌い続けてもなんらおかしいことなんてないんですよ。(極論)

『かっこいいじゃん』とか『かわいいじゃん』とか『おいしいじゃん』とかは別に否定もする気ないから同好の士で収めてくれよな。

何事もそうだけど、見に来てもないのに嫌いな奴に好きになれって押し付けるのはやめてくれな。

もちろん、逆に嫌いな奴が好きな奴に嫌いになれっていうのもわざわざ気持ち悪いとか言いに(悪意をぶつけに)行くのもダメだけどな。

 

頼むよ。

悪意はダメって言われるけど、善意(そいつ視点では)の押しつけも性質悪いよねって話。