体感の加速装置
体感速度。
自分が感じている時間というもの。
楽しければ加速する。
つまらなければ遅くなる。
楽しすぎたら光速に突入しないだろうか。
どのくらい楽しかったらタイムスリップとか逆にできそうなくらいの加速がもたらされるだろう。
というか加速しすぎたらそれは逆に何が楽しかったかわからない、という
?
が乱舞している状態になるのではないか。
おもしろい→面白さに応じて加速する時間→面白過ぎると圧縮される→圧縮されすぎて認識できない→くらいおもしろいから加速は止められない→何がおもしろいのか結果的に認識できない→でも面白いという事実が消えるわけではないのでやっぱり加速する
本当に面白いものは実体が捉えられないということなのか。
面白いがゆえに何が面白いのか語ることはできず、またその内容を振り返ることもできない。振り返ろうとした時点でおもしろくなって何を振り返ったのかわからなくなるのだ。なんだそれは。なんなんのだこれは。
でも加速するのは感覚的な時間なので、じっさいその光速を越えんとするおもしろさを感じるそれを何某か楽しんでいる時間というのは存在する。
楽しさの実態をとらえきれないがゆえに飽きも存在せず、何度も繰り返し楽しむことができてしまう。
つまり、延々と楽しむことができる。瞬間で終わるそれは、いつまでたっても満足感が来ない事への裏返しにもなる。
一瞬で終わったなぁ→実際は数時間経過している。
これがなりたってしまうなら、これもう武器である。
おもしろいものばかりを詰め込んでしまえば、もしかしたら人間の体感人生はとんでもないことになってしまうかもしれない。
その人にとってつまらないものも入れることでバランスをとっているのかもしれない。
おもしろい体験は、ほどほどにつまらないものを体験しておくと相殺できるのかもしれない。
ほどほどにつまらない話を脳にストックすることで、人間はおもしろいものの加速にブレーキをかけることができていうのかもしれない。
長く生きていると感じていることが必ずしも幸福につながるとは限らないが、さすがに感じられないくらいの速度はあれなのでこういうくだらないような話も必要だという事なんですよ!
そういうことなんですよ()