そっと落ちるように囁く声
ずっと沈み込むように、ヘドロのようにこびりつく記憶に。
日々の出来事に。
打ちのめされるでもなく、頭を押さえられて無理やり溺れさせられているような気分でいた。
そんな、落ち込む僕の脳内に、唐突に姿なき声が響いた。
(筋肉)
驚愕した。
何にって、まず脳内に声が聞こえることもそうだけれど、その内容が一言『筋肉』だけだかったからだ。そしてなにより、その一言はまるで赤子を抱きかかえるような慈しみにあふれ声だったのだ。
筋肉に慈愛を持っている。
間違いがなかった。
なんだそれ。なんやねん。なんでだ。もうちょっとなんかあるやろ。
僕は脳内で届くことはないだろう、いまだかつてない渾身のツッコミを入れた。
どうしようもなく、裏拳でツッコミを入れたかったのだ。
もう全力前進、一意専心、全ての力を手の甲に込めて。
鉄を穿つような一撃で、「なんで筋肉だ!」というツッコミを入れてやりたかったのだ。
渾身のジョークをかまされたのだ。
そう思い込みたかったのだ。
――その声に、遊びは一切感じられなかったというのに。
愚かにも僕は、筋肉という囁きを受け入れることはできなかった。
(筋肉はいいぞ!)
戸惑う僕に対する遠慮などあるわけもないということか、囁き声は続いた。
幻聴に筋肉トークを始められる現実がそこにはあった。
病院に行こう。
僕は決心を固めつつあった。
(悩んだら筋肉だ。悩まなくとも筋肉だ! 筋肉は全てを解決してはくれないが、全てにそっと寄り添ってくれるパートナーなんだ!)
病んだのだ。思いのほかそうだったのだ。
確信した。
僕は病んでいる。
ネット上の筋肉にまつわる動画なんてぼーっと眺めていたことが原因なのかもしれないな、とふと虚ろな目をして思った。
自分は、自分が思うよりもちょっと脳内に深刻なダメージを受けていたのだ。絶対。きっと。多分。そうであれ。
(体力がない? 大丈夫! 筋肉をつければ解決だ! 筋トレをする筋肉がない? 大丈夫! 筋肉をつければいいんだ!)
シナプスとかニューロンとか、知らないけどもっとしっかりしろ。
もう別方面につっこみを入れるしかなかった。自分の脳内で聞こえるそれともはやかかわりを持ちたくもない。
それしか、僕には術が残されていなかったのだ。
(ジムにいって馬鹿にされるのが嫌だ? じろじろ見られることに耐えられるメンタルがない? 大丈夫! いうほど他人は君に興味なんかないし、見ているとしても大体が「あれがどう育つか」とかその辺だ!)
誰もジムに行きたいなどと口に出すどころか思考の端っこにも出していない。
こいつはいったい誰と会話をしているんだ? 一方的なストーカーを見た時のような不気味さと恐怖をそこに見る。
幻聴にしたってもうちょっとそのあたりの整合性は気にしてほしいと思った。そんなことで幻聴の世界で生きていけるのかと心配になるほどだ。幻聴の世界ってなんだよ。むしろ幻聴だからこそ一方的で問題ないだろ。
(ウェイトができない、ジムにいけない。大丈夫だ! 君には体がある! 筋肉は君を差別しない! 大きくなるスピードに差がでるかもしれないけれど、筋肉は決して君をせかしたりしないんだ。ジムにいけないなら、そう! 自重だね!)
――さぁ! 病院を探そう!
かつてない勢いと決断を僕はした。
そして、落ち込んでていてもいいから少しでも筋力をつけよう!
幻聴が聞こえなくなるくらいには!
そう思えた。
というかもうこの幻聴を聞きたくなかった。筋肉鍛えりゃ消えるやろ、はよ消えろ。
でしかなかった。
自分のほほが冷たいことに気が付く。
気付けば涙が流れていた。
きっとそれは、『幻聴にしたってもっとなんかあったろ』っていう自分に対する悲しみの涙だった……